『叱りをデザインする』

 「それは、やめてください。吹き抜けなんてもってのほかです。」ある保育園での設計打ち合わせでのことだ。手すり越しに子どもが物を落とし、階下にいる子どもにあたって怪我でもしたら、父兄に申し訳が立たないと、園長は言った。

 私は、保育園をはじめとする子どものための建築設計に携わっているが、どの仕事でもこの手の話が出る。聞けば、近頃の父兄の中には、子どもが膝をすりむいただけでも怒鳴り込んでくる人がいるという。顔に怪我でもしようものなら、どんなかすり傷でも皮膚科(外科ではなく)へ連れて行く。傷痕をできるだけ残さないようにとの配慮なのである。

 本来保育士は、吹き抜けの手すりから物を落とそうとする子どもがいれば、それが階下のお友達にあたったらどうなるかを「叱る」ことによって考えさせ、子どもを育てていく存在であるべきだと思う。しかし、それ自体を回避しようとしてしまうのが現実だ。こんなこともあった。床に天然の杉板を使うことを提案したしたところ、「削げが刺さるから困ります。それに、子どもはすぐ汚しますから、掃除がたいへん。」と答えが返ってきた。結局、合成樹脂でコーティングされた、複合フローリングと呼ばれる工業製品を使うことになった。表面は平滑で、拭けばすぐに汚れは落ち、間違っても削げは刺さらない。しかし、本当にそれでよかったのか。

 子どもたちは、削げが刺さることで、体の痛みとともに自然素材の扱い方を学び、自ら雑巾をかけ、その労苦を知ることで、美しく使うという心を養っていく。それは自然物の「叱り」と呼べるかもしれない。こうして子どもたちは、「叱って」もらえるチャンスを少しずつ奪われていく。それは、子どもから学びを奪い、育ちを奪うということだ。

 時として、「叱って」はならない場面もある。私は、都心部の子どもたちの環境に、ビオトープを普及させる活動に参加している。保育園で子どもたちと一緒に池を掘り、メダカを放流したときのことだ。「めだかさん、すくってみい。」というと、池の周りに座った子どもたちは、一斉に、そして素晴らしい勢いで上からメダカを掴む(掬うのではなく)。池や川で生物を掬い取った経験が無いために、「掬う」という動作がわからないのだ。力いっぱい掴まれたメダカは、その小さな手の中で潰れてしまう。そんな時、彼らは驚きと、恐怖と、後悔が入り混じったなんともいえない表情をする。叱ってはならない。彼らは、その瞬間、自らの手で生物のいのちを奪うという取り返しのつかない行為に、痛恨の涙を流し、心のすべてを揺らしてメダカに詫び、自分自身を激しく「叱って」いるはずだ。こうして彼らはいのちの尊さを学んでいく。

 子どもは遊びの天才だから、四角い部屋と平らな園庭でも無限に遊びを生み出していく、という考え方がある。子どもの能力に甘えきった、都合のよい解釈だ。山で転び、岩場ですりむき、池でびしょ濡れになり、押入れに潜って頭を強かにぶつけ、痛みとともに生きる力を育む。障子を破り、畳を傷め、穴を開けてしまった襖を修繕する労苦を体験して、物を大切にすることを覚える。管理者から敬遠されるものには必ずといっていいほど、「叱る」チャンス、つまり育つチャンスが潜んでいる。子どもは「叱ら」なくても大きくなっていく。でも、大きくなることと、育つことは意味が違う。「叱る」ことが苦手な人もいる。「叱り」方がわからない時もある。うまく「叱って」もらえなかった人には難しいことだ。そんな時は、大地に、素材に、いのちに叱ってもらえばいい。 我々保育家や建築家は、そんな思想をもって子どもたちの環境を考えられているだろうか。保育家はもっと、園舎や園庭のことを考え、建築家はもっと、子どものことを考えるべきではないだろうか。それぞれの仕事の境界線を引いてはいけない。子どもの育ちの鍵は、その境界線が交わるところにこそ存在するのだから。使いやすさよりも、造形の美しさよりも、安全よりも、快適さよりも、保育家と建築家に、最も求められるデザインの考え方。「叱り」をデザインすること。我々は、まず自らを叱らなければいけない。いつか、成長した子どもたちに褒めてもらえるように。

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